かぼちゃと里芋>『エール』第77話 - 2020.09.29 Tue
音楽教室は近いうちに閉めちゃうんだろうな
…とは思っていたし、そう書いたけど
早くも今日、それが実現。
サクサク進むなあ(笑)
かといって
テンポが良いというわけでは決してないんだけどね>こらこら
…ひじゅにですが何か?
「少し前まで普通だったことが普通じゃなくなっていますもんね」by音
これは、まさに今
コロナ渦の中にある視聴者に向けた台詞でせうか?
音楽教室から国防婦人会へ。
平和の象徴から、戦争の象徴(の一つ)へ。
でも、その音楽教室だけどさ…
本来なら、辞めたくないのに辞めざるを得ない生徒達の悲哀や
辞めさせる親達への複雑な思いが交錯するものなのだろうけど
教室に対する音の思いの程が伝わってこないから
ふ~ん
としか思えない>スマソ
その思い、もしくは意義が
弘哉君を通して描かれるのかと思っていたのだけど
(もしかしたら、描いたつもりでいるのかしれないけど)
音痴だから歌は封印!
ハーモニカあげるから、伴奏に専念してね!
…で終わっちゃって
批判した女の子達の根性を音楽によって正す様子も全くなく
つまり、音楽による「救い」も
上手い下手とか才能の有無に関係ない音楽の「喜び」も
描かれることはなく
(寧ろ、才能が無い人はあっち行ってね!って感じ)
それでいて
「音楽がずっと苦手でね
でも、音先生達のおかげで克服できました」
なんて、弘哉母に言わせて締めるだなんて
おい、脚本家!
音楽のこともドラマのことも碌に考えていないだろ!?
↑落ち着いて下さい、ひじゅにさん(^^;)
そして今度は国防婦人会。
婦人会=悪
ってのも、朝ドラ“お約束”
勿論、現代の感覚では、好意的に見ることができないのは事実だけどさ
当時としては、逆に立派な行為だったんじゃないのかな?
色々と役に立ってもくれたんじゃない?
同じ様に、現代では複雑だけど、当時としては…ってことで
戦時歌謡(これは戦後の造語で、要は軍歌のことだっちゅー話だけど)に
携わっている裕一を夫に持つ音が
婦人会を拒絶しているのは大きな意味がある?
と思っていたんだけど
姉に強く促されたからとはいえ、婦人会まで今日は出向くし
積極的ではないものの一応参加しているし
おまけに帰って来ての感想が
「私は馴染めないかな」って…
単に気分の問題だったの?
独身時代、女性問題に深く関心がある様子だった>いつの間にか消えたけど
その観点から引っかかるものを感じているのかな、とも思ったけど
寧ろそれなら、女性が社会進出する一助として婦人会も役立つと
進んで参加していてもおかしくなかったか(笑)
まあ、音楽挺身隊への伏線なのかもしれないけどね。
音楽の意味、音楽の役割…等このドラマのテーマに直接関係するものが
逆の形で示されることになると思うので
いや、当時としては、また、裕一が携わっているという意味でも
正しい方向ということにはなるわけで…
この挺身隊がどう描かれるのかちょっと興味が湧くけど
このドラマには期待は禁物だから(^^;)
静観しませう…
“喫茶 竹”のシーンもナンダカナ…
食糧不足を少しでも補おうと家庭菜園を始める人も少なくない
…という時代背景を示し
それに触発された音が二話に波多江を作り始める
…というエピソードへと持って行くために
マスター試作の里いもババロアやツルのかりんとう
そして弘哉母のかぼちゃを出したのだろうけど
ババロアは一口でやめ、かりんとうは手を付けようともしない音って…
不味い!というオチでギャグにしているのは分かるんだけどさ
食糧不足を嘆くシーンにそれって…
婦人会と同じで音が我儘なだけに見えてしまう。
かぼちゃのシーンもさ…
幾ら好物でも、幾ら子供でも
人のかぼちゃを貰おうとする華ちゃんもイマイチ>スマソ
だって、食事の品数が激減していることは日々分かっているハズだし
昨日は、お芋ご飯しか出せないことを謝る音に
「お芋ご飯好きだから」と答えて、健気なところを見せていただけに…
裕一の親バカぶりを笑うシーンなのだってことは分かるよ。
でも、面白いわけでもないし
そんな裕一が可愛いわけでも全くないし>あ、言っちゃった
五郎さん再登場で、少し新風が吹けば良いな。
↑実はあまり期待もしていない>こらこら
☆楽天もう…何がなんだか日記もヨロシクです☆

かぼちゃ

里芋チップス

一坪家庭菜園

…とは思っていたし、そう書いたけど
早くも今日、それが実現。
サクサク進むなあ(笑)
かといって
テンポが良いというわけでは決してないんだけどね>こらこら
…ひじゅにですが何か?
「少し前まで普通だったことが普通じゃなくなっていますもんね」by音
これは、まさに今
コロナ渦の中にある視聴者に向けた台詞でせうか?
音楽教室から国防婦人会へ。
平和の象徴から、戦争の象徴(の一つ)へ。
でも、その音楽教室だけどさ…
本来なら、辞めたくないのに辞めざるを得ない生徒達の悲哀や
辞めさせる親達への複雑な思いが交錯するものなのだろうけど
教室に対する音の思いの程が伝わってこないから
ふ~ん
としか思えない>スマソ
その思い、もしくは意義が
弘哉君を通して描かれるのかと思っていたのだけど
(もしかしたら、描いたつもりでいるのかしれないけど)
音痴だから歌は封印!
ハーモニカあげるから、伴奏に専念してね!
…で終わっちゃって
批判した女の子達の根性を音楽によって正す様子も全くなく
つまり、音楽による「救い」も
上手い下手とか才能の有無に関係ない音楽の「喜び」も
描かれることはなく
(寧ろ、才能が無い人はあっち行ってね!って感じ)
それでいて
「音楽がずっと苦手でね
でも、音先生達のおかげで克服できました」
なんて、弘哉母に言わせて締めるだなんて
おい、脚本家!
音楽のこともドラマのことも碌に考えていないだろ!?
↑落ち着いて下さい、ひじゅにさん(^^;)
そして今度は国防婦人会。
婦人会=悪
ってのも、朝ドラ“お約束”
勿論、現代の感覚では、好意的に見ることができないのは事実だけどさ
当時としては、逆に立派な行為だったんじゃないのかな?
色々と役に立ってもくれたんじゃない?
同じ様に、現代では複雑だけど、当時としては…ってことで
戦時歌謡(これは戦後の造語で、要は軍歌のことだっちゅー話だけど)に
携わっている裕一を夫に持つ音が
婦人会を拒絶しているのは大きな意味がある?
と思っていたんだけど
姉に強く促されたからとはいえ、婦人会まで今日は出向くし
積極的ではないものの一応参加しているし
おまけに帰って来ての感想が
「私は馴染めないかな」って…
単に気分の問題だったの?
独身時代、女性問題に深く関心がある様子だった>いつの間にか消えたけど
その観点から引っかかるものを感じているのかな、とも思ったけど
寧ろそれなら、女性が社会進出する一助として婦人会も役立つと
進んで参加していてもおかしくなかったか(笑)
まあ、音楽挺身隊への伏線なのかもしれないけどね。
音楽の意味、音楽の役割…等このドラマのテーマに直接関係するものが
逆の形で示されることになると思うので
いや、当時としては、また、裕一が携わっているという意味でも
正しい方向ということにはなるわけで…
この挺身隊がどう描かれるのかちょっと興味が湧くけど
このドラマには期待は禁物だから(^^;)
静観しませう…
“喫茶 竹”のシーンもナンダカナ…
食糧不足を少しでも補おうと家庭菜園を始める人も少なくない
…という時代背景を示し
それに触発された音が二話に波多江を作り始める
…というエピソードへと持って行くために
マスター試作の里いもババロアやツルのかりんとう
そして弘哉母のかぼちゃを出したのだろうけど
ババロアは一口でやめ、かりんとうは手を付けようともしない音って…
不味い!というオチでギャグにしているのは分かるんだけどさ
食糧不足を嘆くシーンにそれって…
婦人会と同じで音が我儘なだけに見えてしまう。
かぼちゃのシーンもさ…
幾ら好物でも、幾ら子供でも
人のかぼちゃを貰おうとする華ちゃんもイマイチ>スマソ
だって、食事の品数が激減していることは日々分かっているハズだし
昨日は、お芋ご飯しか出せないことを謝る音に
「お芋ご飯好きだから」と答えて、健気なところを見せていただけに…
裕一の親バカぶりを笑うシーンなのだってことは分かるよ。
でも、面白いわけでもないし
そんな裕一が可愛いわけでも全くないし>あ、言っちゃった
五郎さん再登場で、少し新風が吹けば良いな。
↑実はあまり期待もしていない>こらこら
☆楽天もう…何がなんだか日記もヨロシクです☆

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