包装紙>『なつぞら』第136話 - 2019.09.05 Thu
天陽の件
「早々に&アッサリと終わってしまったのは
このドラマにしては気が利いている
…というべきか?」
なんて書いたけど、撤回するわ
確かに死そのものは「早々に&アッサリと」だったけど
その後を、こんなにタラタラと引っ張るなんて
まさに欠席裁判って感じじゃん
しかも判決は
なつ上げ
不憫だ…不憫過ぎる
新一兄さん@『わろてんか』より不憫(^^;)
…ひじゅにですが何か?
「それが答だね」byなつ
↑これは勿論、ラストのナレーション
「なつよ、それが君の答か」
に繋がるわけだけど…
そうやって、なつ&天陽が特別な絆で結ばれていた―
みたいな結論に、無理くり持って行こうとするところが
「ところが」ではなく「全て」なわけだが
何だかとっても…どーにもこーにも…とにかくもう絶妙に
キモチワルイ…
↑言っちゃった(笑)
“雪月”の皆も柴田家の皆も弥市郎さんも
それぞれが天陽を語る。
それは、それぞれの天陽であって
天陽の一面ではあるかもしれないけど
全体像ではない。
つーか、それぞれの理想もしくは妄想が加わっている。
天陽がどんどん偶像化されていく。
しかも、それは「天陽」教ではなく
あくまでも「なつ」教なんだよな…(^^;)
天陽の最後の日々が引っ張られるのと
どちらがマシだったんだろう…
子役時代の2人には十分に「絆」はあったと思うけど
あの頃は、なつのキャラもドラマそのものも
それを含ませていたというか
その存在を伝えるだけのものがあったというか
…要するに、そういう物語が成立していた。
照男との縁談を泰樹さんが言い出して
天陽と照男が競争をする当たりから
ちょっと安っぽいラブコメ路線に逸れてきて
本来の純粋で特別感があったものが崩れ始め
東京編になってからは
天陽はほとんど出番もなくなってしまった。
カメラに映らないところで交流が続いていた
…なんてことも全くなく(笑)
なつは彼を思い出すことも滅多になかった。
天陽の影響&教えで絵を描く様になった
…みたいなこと言っている割には
東洋動画入社前後のなつの絵はヘタクソ!
という設定だったし―
動きの表現力は褒められていたものの
天陽のパラパラマンガとの関連はあまり語られず
天性のもの(つまり天才)と受け止められていたし―
その後、上達したのは東洋動画で揉まれたから
という解釈だったし(^^;)
一応、天陽の存在から伝わってきたものはある。
初期の天陽は
毒親&愛玩子の兄の犠牲となりながらも
絵を描くことはやめなかった。
それは生きることそのものだったから。
晩年の天陽は
絵を描くことさえも生活のため…になってしまい
それを「狩り」と表現することで割り切っていた様だったけど
(勿論それは家族のためなのだから栄誉であり喜びでもあったろうけど)
それだけではないのは、絵を描く彼の様子から分かった。
…こんな程度だけど>それも好意的解釈をするなら…だけど
こんな程度だけでも分かることは
なつとは動機も向き合い方も信念も目的も全く違う―
ってこと。
どちらが良い悪いじゃなくてさ
魂が結び付いている…みたいな結論を言葉だけで提示されても
その様に描かれてこなかったんだから納得できないよ。
納得できなきゃ感動もできないよ。
それでも周囲が持ち上げるものだから
なつは今日も自己中全開。
天陽のことも子供のことも
自分に都合の良い解釈をし
自分が望むままの結論を下し
その責任は自分の背中を押した“誰か”に被せる。
ひねくれた解釈?
そう受け取れてしまう出来なのだから仕方ないっしょ。
…と、ひじゅにも責任をドラマに被せるのである(笑)
【追記】
意味や思い入れはともかく
あの包装紙のデザインは素敵だと思う。
もしかして、これで『日勝』の様なお菓子は作らない算段?
☆楽天もう…何がなんだか日記もヨロシクです☆

六花亭の花柄包装紙デザインのオリジナルグッズ5点セット

柳月 あんバタサン

六花亭 バターケーキ

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に繋がるわけだけど…
そうやって、なつ&天陽が特別な絆で結ばれていた―
みたいな結論に、無理くり持って行こうとするところが
「ところが」ではなく「全て」なわけだが
何だかとっても…どーにもこーにも…とにかくもう絶妙に
キモチワルイ…
↑言っちゃった(笑)
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それぞれが天陽を語る。
それは、それぞれの天陽であって
天陽の一面ではあるかもしれないけど
全体像ではない。
つーか、それぞれの理想もしくは妄想が加わっている。
天陽がどんどん偶像化されていく。
しかも、それは「天陽」教ではなく
あくまでも「なつ」教なんだよな…(^^;)
天陽の最後の日々が引っ張られるのと
どちらがマシだったんだろう…
子役時代の2人には十分に「絆」はあったと思うけど
あの頃は、なつのキャラもドラマそのものも
それを含ませていたというか
その存在を伝えるだけのものがあったというか
…要するに、そういう物語が成立していた。
照男との縁談を泰樹さんが言い出して
天陽と照男が競争をする当たりから
ちょっと安っぽいラブコメ路線に逸れてきて
本来の純粋で特別感があったものが崩れ始め
東京編になってからは
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カメラに映らないところで交流が続いていた
…なんてことも全くなく(笑)
なつは彼を思い出すことも滅多になかった。
天陽の影響&教えで絵を描く様になった
…みたいなこと言っている割には
東洋動画入社前後のなつの絵はヘタクソ!
という設定だったし―
動きの表現力は褒められていたものの
天陽のパラパラマンガとの関連はあまり語られず
天性のもの(つまり天才)と受け止められていたし―
その後、上達したのは東洋動画で揉まれたから
という解釈だったし(^^;)
一応、天陽の存在から伝わってきたものはある。
初期の天陽は
毒親&愛玩子の兄の犠牲となりながらも
絵を描くことはやめなかった。
それは生きることそのものだったから。
晩年の天陽は
絵を描くことさえも生活のため…になってしまい
それを「狩り」と表現することで割り切っていた様だったけど
(勿論それは家族のためなのだから栄誉であり喜びでもあったろうけど)
それだけではないのは、絵を描く彼の様子から分かった。
…こんな程度だけど>それも好意的解釈をするなら…だけど
こんな程度だけでも分かることは
なつとは動機も向き合い方も信念も目的も全く違う―
ってこと。
どちらが良い悪いじゃなくてさ
魂が結び付いている…みたいな結論を言葉だけで提示されても
その様に描かれてこなかったんだから納得できないよ。
納得できなきゃ感動もできないよ。
それでも周囲が持ち上げるものだから
なつは今日も自己中全開。
天陽のことも子供のことも
自分に都合の良い解釈をし
自分が望むままの結論を下し
その責任は自分の背中を押した“誰か”に被せる。
ひねくれた解釈?
そう受け取れてしまう出来なのだから仕方ないっしょ。
…と、ひじゅにも責任をドラマに被せるのである(笑)
【追記】
意味や思い入れはともかく
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もしかして、これで『日勝』の様なお菓子は作らない算段?
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