朝が来た>『あさが来た』第155話 - 2016.04.01 Fri
色んな「朝」を迎えてきたドラマなのに
新次郎さんは朝を待たずに亡くなってしまった
つまりは
彼の死後の、あさの生き方が
また新たな「朝」
ちゅーことなんだろうね
…ひじゅにですが何か?
「嬉し過ぎて、ず~っと進み過ぎてしもた」byあさ
↑ビジネスドラマとホームドラマと
分かたれていたものが、この台詞で一つになった
夫婦2人だけの
物悲しくも柔らか~い空間を
突き破るかの様に倒れ込んだ新次郎さん。
集まった皆一人一人に声を掛けて大往生
…みたいなのは
実を言えば苦手なんだけれども
多くの人々の死
多くの死の描き方の
最後を飾るものとして
ある意味オーソドックスな
実にドラマらしい最後は
プレ最終回としても
『あさが来た』としても
そして新次郎さんとしても
これこそふさわしい…という気がしてしまうだす。
「もうな…あさと、2人にしてんか」
亀助さんでオチもつけてたしな(笑)
でも、コレって
本当に最後の願いなわけだし
それを亀助さんに言ったのは
実は亀助さんを一番重んじているってことだと思うよ。
そして
あさと2人だけで迎える最後の時。
これって、正吉さんが亡くなった時と対になっている。
家族や従業員達がそれぞれの場所で泣いている中に
よのさん作の猫張り子が映ったところが
それを主張していると思う。
と同時に
正吉&よのさんも見守っているってことを
表してもいるのだろうね。
また
正吉&よのさんの様な良い夫婦に
今や、新次郎&あさもなっているということも。
「もっとゆっくり手ぇ繋いで歩いたら良かった」
愛する人、大切な人が亡くなると
それまでどんなに努力していても、精一杯のことをしていても
やはり悔いは残ってしまうもの。
あさは商売に熱心過ぎて家庭を顧みなかったと悔いているけれど
実際、初期の頃の新次郎さんはそれを寂しがっていたこともあったけれど
長年の間にそれぞれが一番良く収まる場所を見つけ
絶妙のコンビネーションを見せてきたのだから
最善の道を歩いて来たと言えると思う。
五代さんが言っていた様に
比翼の鳥だったわけだね。
最後の新次郎さんを後ろから支える、あさの図ぅも
意味深いと思う。
今迄ずっと、あさを支えていた新次郎さんを
今は、あさが支えている
…ってことと
顔を合わせ合い、お互いを見つめ合うのではなく
同じ方向を見ている
…ってところが
まさに比翼の鳥って感じ。
でもってそれが
上記の台詞に集約されている。
商売が大好きで、商売の道を突き進んできた、あさ。
ファーストペンギンだった、あさ。
他のお母さん達と違い過ぎると、かつて千代ちゃんに恨まれていた、あさ。
でも、その背中を押してくれたのは新次郎さんだった。
ビジネスドラマとホームドラマの2つに分かれていたのではない
それらは、あさによって結び付けられていた…というよりも
あさにとっては最初から一つのものだった。
結び付けてくれていたのは新次郎さんだった。
…って感じ?
まあ、ドラマとして2つが拮抗していたのなら
真に理想的だったんだけれども
ビジネスドラマの方がやや弱かったからなあ>まだ言うか!?
でも、出来事はビジネス面の方がインパクトあったから
その分、ホームドラマに時間と気持ちを割いて
そういう意味でバランス取ってたのだと解釈しておこう>無理クリ?
朝を待たずに新次郎さんは逝ってしまい
その直後に訪れる「朝」を描くのかと思ったら
画面は既にお葬式も終わり頃。
梅の木が複数の花を付けて
時間の経過を示している。
お葬式ってさ
忙しくって慌ただしくって
訪れてくれた人々や手伝ってくれる人々に
気も遣わなくっちゃならなくて
実はじっくり悲しんでいる暇もないんだよね。
だから、あさには
まだ「朝」は来てないってことだろう。
新次郎さんの最後の言葉が「あさ」なのが象徴的。
だって、雨が降り出して
雨男の新次郎さんの仕業だなと思わせて
「びっくりポンや」
という、あさの台詞が出て
ここで、ようやく
あさに新しい「朝」がやって来た
ってことだと思うから。
☆楽天もう…何がなんだか日記もヨロシクです☆

霜の朝

紅梅

雨

新次郎さんは朝を待たずに亡くなってしまった
つまりは
彼の死後の、あさの生き方が
また新たな「朝」
ちゅーことなんだろうね
…ひじゅにですが何か?
「嬉し過ぎて、ず~っと進み過ぎてしもた」byあさ
↑ビジネスドラマとホームドラマと
分かたれていたものが、この台詞で一つになった
夫婦2人だけの
物悲しくも柔らか~い空間を
突き破るかの様に倒れ込んだ新次郎さん。
集まった皆一人一人に声を掛けて大往生
…みたいなのは
実を言えば苦手なんだけれども
多くの人々の死
多くの死の描き方の
最後を飾るものとして
ある意味オーソドックスな
実にドラマらしい最後は
プレ最終回としても
『あさが来た』としても
そして新次郎さんとしても
これこそふさわしい…という気がしてしまうだす。
「もうな…あさと、2人にしてんか」
亀助さんでオチもつけてたしな(笑)
でも、コレって
本当に最後の願いなわけだし
それを亀助さんに言ったのは
実は亀助さんを一番重んじているってことだと思うよ。
そして
あさと2人だけで迎える最後の時。
これって、正吉さんが亡くなった時と対になっている。
家族や従業員達がそれぞれの場所で泣いている中に
よのさん作の猫張り子が映ったところが
それを主張していると思う。
と同時に
正吉&よのさんも見守っているってことを
表してもいるのだろうね。
また
正吉&よのさんの様な良い夫婦に
今や、新次郎&あさもなっているということも。
「もっとゆっくり手ぇ繋いで歩いたら良かった」
愛する人、大切な人が亡くなると
それまでどんなに努力していても、精一杯のことをしていても
やはり悔いは残ってしまうもの。
あさは商売に熱心過ぎて家庭を顧みなかったと悔いているけれど
実際、初期の頃の新次郎さんはそれを寂しがっていたこともあったけれど
長年の間にそれぞれが一番良く収まる場所を見つけ
絶妙のコンビネーションを見せてきたのだから
最善の道を歩いて来たと言えると思う。
五代さんが言っていた様に
比翼の鳥だったわけだね。
最後の新次郎さんを後ろから支える、あさの図ぅも
意味深いと思う。
今迄ずっと、あさを支えていた新次郎さんを
今は、あさが支えている
…ってことと
顔を合わせ合い、お互いを見つめ合うのではなく
同じ方向を見ている
…ってところが
まさに比翼の鳥って感じ。
でもってそれが
上記の台詞に集約されている。
商売が大好きで、商売の道を突き進んできた、あさ。
ファーストペンギンだった、あさ。
他のお母さん達と違い過ぎると、かつて千代ちゃんに恨まれていた、あさ。
でも、その背中を押してくれたのは新次郎さんだった。
ビジネスドラマとホームドラマの2つに分かれていたのではない
それらは、あさによって結び付けられていた…というよりも
あさにとっては最初から一つのものだった。
結び付けてくれていたのは新次郎さんだった。
…って感じ?
まあ、ドラマとして2つが拮抗していたのなら
真に理想的だったんだけれども
ビジネスドラマの方がやや弱かったからなあ>まだ言うか!?
でも、出来事はビジネス面の方がインパクトあったから
その分、ホームドラマに時間と気持ちを割いて
そういう意味でバランス取ってたのだと解釈しておこう>無理クリ?
朝を待たずに新次郎さんは逝ってしまい
その直後に訪れる「朝」を描くのかと思ったら
画面は既にお葬式も終わり頃。
梅の木が複数の花を付けて
時間の経過を示している。
お葬式ってさ
忙しくって慌ただしくって
訪れてくれた人々や手伝ってくれる人々に
気も遣わなくっちゃならなくて
実はじっくり悲しんでいる暇もないんだよね。
だから、あさには
まだ「朝」は来てないってことだろう。
新次郎さんの最後の言葉が「あさ」なのが象徴的。
だって、雨が降り出して
雨男の新次郎さんの仕業だなと思わせて
「びっくりポンや」
という、あさの台詞が出て
ここで、ようやく
あさに新しい「朝」がやって来た
ってことだと思うから。
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紅梅

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