『八重の桜』第35話 - 2013.09.08 Sun
第35話『襄のプロポーズ』
「私はまた置いてかれた」by八重
尚之助の死を受け入れ、襄との再婚を決意する八重の図ぅ―
東京での涙ながらの別れを経ても、納得いかないと憤りを露わにするのは
「私の前を行く凛々しい妻」と言いながら
猪苗代の時からこっち、尚之助はさっさと歩いて行ってしまい
八重は取り残されるがまま…
だからだよね。
そして遂に、尚之助は亡くなってしまい
八重は永遠に置いていかれてしまった。
実際のところは
闇の中で身動きできない状態の尚之助に対し
新しい世の中へと歩んでいくべき八重なのだけど
そして確かに歩み始めてもいるのだけど
それでも悲しみや寂しさやどうにもならない思いを
怒りの形でぶつけるのは分かる気がする。
それにしても、尚之助
状況的にああした死しかないだろうな…とは思いつつも
やはり、あの様な死を迎えることになって
悲しいとしか言い様がない。
最後に瞬間まで『会津戦記』を書き記していた―
という設定は
「何も成せなかった」と嘆いていた先回の答になるし
観ているこちらにも大きな救いと見なせるのだけど
これってフィクションらしい…(涙
「何ひとつ報いてやれなかった」by覚馬
これは容保様が斉藤&時尾の仲人を務めた時の
「ようやくひとつ報いることができた」
という言葉との対比?
容保様は今も皆を思い生きているのだなあ…と感慨深くなるけど
覚馬は、うらと時栄の件があってからこっちイメージがイマイチで
「報いてやれなかった」んじゃなく「報いようとしなかった」じゃないの?
と、ついつい思ってしまっ…スミマセンスミマセン
「ゆっくり時をかけた戦死だ」by覚馬
これは八重の中で今だ続いていた戦争の終焉を告げるもの?
尚之助からの最後のメッセージ?
妹を思いやる覚馬からのメッセージ?
夫の死の知らせに打ちひしがれている八重の心を襄が救う―
時尾から
尚之助の気持ちを自分に置き換えることで理解するよう促された八重を
斉藤から
嫌な思い出しかない所でも懐かしいのだという話を聞いた襄が誘う。
行先は三郎が戦死した場所。
一瞬、唐突に感じてしまった。
襄がイキナリ石やら何やらに耳をすます様子も
素っ頓狂な行為に見えてしまった(笑)
でも、これって襄のキャラを魅力的にしているよね。
先回は靴磨き、今回は台所の手伝い>サンドイッチも作っちゃう
当時の日本男児には考えもつかない行動も
アメリカナイズされてるっていうより襄自身の飄々とした性格を表している感じで
非情に好感。
でも、そうした個人的な特質に惹きつけさせるのではなく
「亡くなった人は…あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます」by襄
と、どちらかというとキリスト教的な考えを入れているところに
広がりがある。
仏教との軋轢で
襄の学校設立の件が進まなくなっている
その状況ともリンクする。
いや、象徴としているのかもしれない。
…まあ、私自身も聖書を信じているのだけど
聖書は決して霊魂不滅説を教えてはいないんだよね。
死=無 でしかない。
でも、世のキリスト教会では
肉体は死んでも魂が生き残ると教えているらしい。
それは仏教でも同じだよね。
だから真実はどうかってのは別として
この場においては、これがキリスト教と仏教の共通の土台。
でも、仏教の方は輪廻という教えがあるから
亡くなった人がいつまでも傍にいる…という概念は
仏教しか知らなかった八重には新鮮な驚きだったかも?
そして、それを地面に触れた手を通して実感できたってことで
三郎はもとより、尚之助や、父親や…多くの人達の死を
ようやく静かに受け入れることができた…ってことなのだろう。
話はズレるけど
輪廻転生に関しては手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』に描かれていて
とても面白かった。
尚之助の怪我を治療した思い出の後で
襄の怪我を手当するシーンが入るのも
八重の心境の変化が感じられる。
椅子に座っていた襄が床にピョコンと飛んで正座したのがカワイイ(笑)
☆楽天もう…何がなんだか日記もヨロシクです☆

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尚之助の死を受け入れ、襄との再婚を決意する八重の図ぅ―
東京での涙ながらの別れを経ても、納得いかないと憤りを露わにするのは
「私の前を行く凛々しい妻」と言いながら
猪苗代の時からこっち、尚之助はさっさと歩いて行ってしまい
八重は取り残されるがまま…
だからだよね。
そして遂に、尚之助は亡くなってしまい
八重は永遠に置いていかれてしまった。
実際のところは
闇の中で身動きできない状態の尚之助に対し
新しい世の中へと歩んでいくべき八重なのだけど
そして確かに歩み始めてもいるのだけど
それでも悲しみや寂しさやどうにもならない思いを
怒りの形でぶつけるのは分かる気がする。
それにしても、尚之助
状況的にああした死しかないだろうな…とは思いつつも
やはり、あの様な死を迎えることになって
悲しいとしか言い様がない。
最後に瞬間まで『会津戦記』を書き記していた―
という設定は
「何も成せなかった」と嘆いていた先回の答になるし
観ているこちらにも大きな救いと見なせるのだけど
これってフィクションらしい…(涙
「何ひとつ報いてやれなかった」by覚馬
これは容保様が斉藤&時尾の仲人を務めた時の
「ようやくひとつ報いることができた」
という言葉との対比?
容保様は今も皆を思い生きているのだなあ…と感慨深くなるけど
覚馬は、うらと時栄の件があってからこっちイメージがイマイチで
「報いてやれなかった」んじゃなく「報いようとしなかった」じゃないの?
と、ついつい思ってしまっ…スミマセンスミマセン
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これは八重の中で今だ続いていた戦争の終焉を告げるもの?
尚之助からの最後のメッセージ?
妹を思いやる覚馬からのメッセージ?
夫の死の知らせに打ちひしがれている八重の心を襄が救う―
時尾から
尚之助の気持ちを自分に置き換えることで理解するよう促された八重を
斉藤から
嫌な思い出しかない所でも懐かしいのだという話を聞いた襄が誘う。
行先は三郎が戦死した場所。
一瞬、唐突に感じてしまった。
襄がイキナリ石やら何やらに耳をすます様子も
素っ頓狂な行為に見えてしまった(笑)
でも、これって襄のキャラを魅力的にしているよね。
先回は靴磨き、今回は台所の手伝い>サンドイッチも作っちゃう
当時の日本男児には考えもつかない行動も
アメリカナイズされてるっていうより襄自身の飄々とした性格を表している感じで
非情に好感。
でも、そうした個人的な特質に惹きつけさせるのではなく
「亡くなった人は…あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます」by襄
と、どちらかというとキリスト教的な考えを入れているところに
広がりがある。
仏教との軋轢で
襄の学校設立の件が進まなくなっている
その状況ともリンクする。
いや、象徴としているのかもしれない。
…まあ、私自身も聖書を信じているのだけど
聖書は決して霊魂不滅説を教えてはいないんだよね。
死=無 でしかない。
でも、世のキリスト教会では
肉体は死んでも魂が生き残ると教えているらしい。
それは仏教でも同じだよね。
だから真実はどうかってのは別として
この場においては、これがキリスト教と仏教の共通の土台。
でも、仏教の方は輪廻という教えがあるから
亡くなった人がいつまでも傍にいる…という概念は
仏教しか知らなかった八重には新鮮な驚きだったかも?
そして、それを地面に触れた手を通して実感できたってことで
三郎はもとより、尚之助や、父親や…多くの人達の死を
ようやく静かに受け入れることができた…ってことなのだろう。
話はズレるけど
輪廻転生に関しては手塚治虫『火の鳥・鳳凰編』に描かれていて
とても面白かった。
尚之助の怪我を治療した思い出の後で
襄の怪我を手当するシーンが入るのも
八重の心境の変化が感じられる。
椅子に座っていた襄が床にピョコンと飛んで正座したのがカワイイ(笑)
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